テーマ史 ~農業3
夏期講習ですが、参加せずに家庭で復習や穴の補強もいいと思います。ただ自宅学習は強い心がないと挫ける危険性もあります。
ところで夏期講習といえばWの合宿は強烈です。体育会ののりでガンガンやるようです。なじめない子にはつらいでしょうが、これだけやったんだから絶対受かる~という超ポジティブな気構えもできますよ。
中三の合宿では志望校・成績で宿泊所も違い“開成ホテル”“慶女ホテル”なんて呼ばれていたようです。目指してがんばるか、めげてしまうか…どちらの危険性もありますけどね。でもキャンプファイヤーはとても楽しかったようです。
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江戸時代:《慶応藤沢16》
江戸時代の人口の8割を占める農民は、検地によって土地の面積や収穫高を登録されていた 《JG7》
米の生産を増やすために、幕府や藩はさかんに新田の開発を行い、その結果、17世紀には耕地が100年前の2倍に増えました 《JG13》
かんがい設備や肥料にする草木の栽培に共同であたった 《JG7》
サツマイモと食料不足の解消。千歯こきと大量脱穀。タバコや綿などの商品作物
米のとれ高の4-5割という高い率の年貢を納めた。四公六民の重い年貢
干したイワシや油かすなどの肥料をお金で買って使用するようになった
道路や堤防の工事の手伝いも分担したおこなった → 助郷役:土木工事や荷物の運搬役
人の力で深く耕せる備中鍬が発明された
年貢の納入について、五人組が共同で責任を負った ← 本百姓のなかから役員というべき村方三役が選ばれ、村を治めた
千歯こきなどの改良によって、脱穀が楽になった。
田畑永代売買禁止令: 江戸時代
幕府は農民が田畑を手放して、どこかに移り住むことを認めていなかった 《JG16》
『江戸時代の農村』《慶應藤沢8》
士農工商: 江戸時代の人々は厳しく身分が分けられていました
一番上の身分とされた武士の生活をささえる農民たちは全人口の8割を占めていました
年貢: 農民が生産した米は年貢として五公五民などの割合で納められ、幕府や藩の主要な財源となりました
農村の構造: 農村には、村の指導にあたったり、役人の命令を村人に伝えたりする役割を担う名主(庄屋)がいました。
共同責任: 幕府や藩は犯罪を防止したり、年貢をきちんと納めさせるために、お互いを監視させる五人組という組織を農村の中につくらせました
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定免法: 18世紀前半 江戸中期《慶應藤沢16》
「豊作だろうが凶作だろうが、毎年同じ額の年貢を取られるようになってしまった」
定免法と検見法: 吉宗の享保の改革で年貢の取り方がそれ以前の毎年収穫前に検査して決める検見法から、その年の収穫に関係ない定免法に変わって年貢が重くなった ←幕府や藩の収益は安定した
村の過去の収穫量の平均で年貢を決めてしまう定免法
× 上知令: 水野忠邦の天保の改革。江戸と大阪周辺を天領(幕府領)にする施策→失敗に終わる
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明治時代 ~地租改正(1873)
1873年に条例を出して、税とりたての基準をそれまでの不安定な収穫高(石高)ではなく、土地の値段にして、全国一律にその3%を土地の所有者から現金で納めさせる方法にした《JG10》
天候に左右される年貢は政府の歳入を不安定にしていた。そこで政府は地租改正をおこない、年貢の代わりに土地の持ち主から現金で税を納めさせるようにした。農民の負担は江戸時代と比べて、ちっとも減らなかった。
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農地改革(1946): 昭和《慶應藤沢16》
「戦争も終わり、土地を安く買えた。もう地主に小作料を払わなくてよい」
→ GHQ(連合国軍総司令部)の命令。日本の農村の民主化が目的でした
多くの自作農の出現 →自作地が54%から89%に増加した
大平洋戦争後のGHQの占領下で、政府は地主の田畑のうち一定面積を残して買い上げ、そこを耕作していた耕作人に安く売り渡した
経済・社会の民主化: 財閥解体、農地改革、労働三法
年貢の納入について、五人組が共同で責任を負った ← 本百姓のなかから役員というべき村方三役が選ばれ、村を治めた
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